森美術館『カタストロフと美術のちから』展で、ちからの喪失を考える
森美術館の『カタストロフと美術のちから』展に足を運んだ。目当てだったのはトマス・ヒルシュホルンの3.11を再現させるような『崩落』。会場すぐに目玉として登場する作品は、展覧会のコンセプトに逆行して(あるいはそういう意味も含むのかもしれないが)、美術のちからではなく、ちからをむしろ失ったものとしての「美術」の姿を見た気がした。別様に言えば、ちからをはく奪され残されたモノが「美術」であり、「美術館」という場所だという事実と向き合い、何が「美術」にはできないことなのかを改めて考える機会を提供しているのかもしれない。ヨーロッパで日本の危機を脳内イメージし再現したヒルシュホルンと、ベルリンのコンツェルトハウスを救命胴衣で埋め尽くした艾未未の作品を現場から遠く離れた日本の美術館で鑑賞して、一体何を感じればよいのかということは、位置関係が逆とはいえ同じ疑問を指しているように思う。
だが、自然災害としてのカタストロフとの関係であればそうであっても、人間関係のカタストロフにおいては、「美術」が癒しというちからを発揮することは大いにあり得ることだと感じさせられる作品もあった。スウーンの『メディア』は、作者である彼女自身がカタストロフである過去と向き合い、未解決と解決のなかを必死にもがいている状況そのものを示した彼女という部屋である。受話器から流れる母たち/女たちの声、ノイズを発するマシーン、女たちの子宮に入り込むような窮屈さと、それが宇宙の全てへと一体化していくような広がりを感じさせるイラストレーションの美しさ。手法的には、同じく部屋の角の面を自らの独立した部屋に見立て、写真やコラージュによって、仮想の壁や柱を構築しながら内部でもあり外部でもある空間を展開したドイツのアーティスト、アンナ・オッパーマンに極めて近いものを感じた。両者ともに、自分自身というカタストロフに「美術」で供養する「祭壇アート」というカテゴリーで括ってもよいだろう。オッパーマンが多く、生きた植物や、思い出の品などモノそのものを供養し、スウーンは受話器から流れる録音された音声やノイズマシーンといった形なき記憶の痕跡を捧げている。カタストロフそのものに自らがどう関係し、どう向き合っているのか、その距離感がヒルシュホルンの作品、あるいはオノ・ヨーコの作品と、彼女たちの作品との違いに現れていると言えるのかもしれない。
0コメント