塩田千春『魂が震える』展―増殖する「糸」と「窓」
塩田千春『魂が震える』展(森美術館6月20日より)に足を運んだ。私が最初に塩田作品に驚かされたのは2017年デュッセルドルフ美術館での展示"A Long Day"だったが、このインスタレーションでは繊細な糸でできた洞窟のような空間が創られていて、その糸の網目の中には無数の紙切れが織り込まれており、その中をくぐり抜けながら、全く異なる時間の感触に侵っていくような不思議な感覚に包まれた。
今回森美術館で、塩田千春のおそらく初の本格的な個展が開催とあり、初日に訪問する。彼女の作品の売りはもちろんインスタレーションのスケール、及びその繊細な技巧性の高さなのだろうが、やはり気になるのは、なぜ「糸」なのかという女性作家の表現ツール選択の背景だ。
ちなみに、最初の糸は赤色だったこと、自らの身体の内部神経に連続したイメージであったことが、2007年頃のスケッチ数点からうかがい知れることができた。そこから、他者と結びつく赤い糸が具現化されていくなかで、糸がどこからか独立して、わたしとわたしをめぐる人々の物語を紡ぎ出す「生きたメディア」として増殖しはじめていくように感じられた。
「糸はもつれ、絡まり、切れ、解ける。それはまるで人間関係を表すように、私の心をいつも映し出す」
この糸は、わたしと世界の関係をシンボリックに指し示す「つながりの糸」であると同時に、ただひたすら私という生物実体の最後の砦としての物質性、モノとしての存在証明でもあったようだ。京都精華大学での学生時代の塩田の思想「物質としての存在の在り方」(1994年)には、生はへその緒であり、そして死後に燃やされた灰というマテリアルであると記されている。
そこに塩田の原点があるとすれば、血管からスタートした糸が、やがて他者との時間を絡めとる神秘的な手段となり、そしてやがて癌の宣告と闘病を経た塩田にとって、自分の存在を世界へと「融解=解きほぐして」くれるような、救済の糸へと変化していく様は圧巻だ。
塩田の壮大なインスタレーションに触れるたびに感じるどうしようもない「暗さ」そして「孤独」は、外への接続を求めるがあまり、どんどんとどす黒く、どす赤く「激しさ」を増していく、内なる世界の感情が私たちに押し迫ってくるからなのだろう。真実をつかみたい、他者を理解したいという感情が、極めて触覚的な「糸」を通してどんどんと増殖する。その増殖の繊細な膨らみが、安直なコミュニケーションやら他者理解やらといった言葉で納まったような演出をする私たちの日常に、不安という本来の姿を並行させ、麻痺した感覚をもう一度開いてくれている。
舞台美術家としての塩田のこれまでの仕事もまとめて展示されており、大いに見ごたえがあった。とりわけ、新国立劇場で行われたデア・ローアーの『タトゥー』の舞台に塩田が使用した、「窓」の集合体からなるインスタレーションは、外部とのつながりが遮断され、ただただ内部しかない孤立する家族の話に密接に繋がっており、観劇できなかったことが悔やまれる。それこそ、同じ窓のインスタレーションでも、ベルリンの工事現場でかつての東西分断の時に思いを馳せるツールとして、廃棄された窓を通して人々の思いを想起するといった歴史問題への「外から」のややお気軽な介入よりも、より重たい説得力がある。
本題の「魂がふるえる」だが、最後に「魂」をテーマとしてドイツの小学校の生徒たちに語らせたビデオを流し、まとめの形をとった点に関してはいささか予定調和に過ぎたように感じた。そもそも、塩田の作品に、魂という言葉をあえて取り上げて、その存在/非存在を議論したいというスタンスをとること自体もナンセンスだろう。それをあえてこのようなディスカッションで締めたのは、魂は、一般化不可能で、どこまでも個別であるべきテーマだということなのだろうか。多様化と共生共存を社会がうたう一方で、決して共有不可能で、どこまでも個人の中に閉じ込められずにはいられないものがある。その閉じられたものが、確たる存在をしていること、それを代弁しているのが塩田の作品なのであり、それこそが、現代アートの重要な役割なのだと改めて思う。
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