ビーレフェルト美術館『アンナ・オッパーマン』展が2019年に問い直す、女性によるアヴァンギャルドというテーマ

ビーレフェルトはドイツ北西部の中規模都市であり、ビーレフェルト大学で有名なプロテスタントの街である。19世紀にはユダヤ人のための学校もジナゴーグ(ユダヤ人教会)も建設されたが、水晶の夜により攻撃を受け、その半数はビーレフェルト駅から集団移送された過去がある。現在では、観光地でもないため、生活の街というイメージしかないこの街の旧市街の片隅に美術館がある。ここで、戦後の西ドイツを代表する女性芸術家アンナ・オッパーマンの大規模な展覧会が開催されるとあり、急遽足を運んだ。


ビーレフェルト美術館の本展覧会のサイトでも公開されているが、Friedrich Meschede館長の企画説明がまず素晴らしい。「2019年は、ドイツ全土でバウハウス100周年を祝う展覧会企画、そして女性参政権100周年を考える企画が相次いでいる中、私たちはあえてアンナ・オッパーマンに注目した。なぜなら、女性が芸術アカデミーに正規入学できる許可が与えられたのもまた1919年だったのであり、その後40年たち、アンナ・オッパーマンが1962年にハンブルク芸術大学に入学し、女性芸術家としてキャリア形成する際にもまだ、芸術界は依然として男性支配的な論理が支配していたのであり、そのことをいかに打破するかの模索が彼女の1968年からのアンサンブル『芸術家であること』の中心テーマであったからである。」


アンナ・オッパーマンは、1940年に生まれ、1992年に52歳の若さで癌により死去している。生前1977年と1987年には国際的な美術展ドクメンタへも出展し、またヴェネチア・ビエンナーレでは1980年代を代表するコンセプチュアルアーティストとしてその名を連ねており、ハンブルク美術館では盛大な回顧展も行われているものの、単に奇抜なインスタレーション作家としてでも、モードとしてのコンセプチュアルアーティストの一員としてではない、その作品とメソッドの独自性への正当な評価は、彼女の死後20年近くたつ今なお、現在進行形で進んでいるといえる。


今回の展覧会の目玉作品として置かれたアンサンブル『芸術家であること』はドクメンタ6で提示された作品でもあるが、今回はこの作品へと直接つながっている彼女の初期の油絵やコラージュ、スケッチなどが新たに注目され展示されており、なかでも最も興味深かったのが1963年のコラージュ作品における片足がもげた少女のマネキン像の不気味さと、その上部で縛られながら横たわる成人女性の姿が同時に並べられた空間である。デュシャンの大ガラスの構図が浮かぶようなその配置図は、やがて彼女がアンサンブルという手法で編み出す細部と全体が同時に存在する三次元空間へと発展していく「原風景」のように感じられた。そして何よりやはり、ハンナ・ヘーヒといったコラージュに自らの存在の詩学を貼り合わせた女性作家たちとの揺るぎのない共通点を、新たに発見したように思えた。

メディア論者のクラウス・ピアスは、かつてオッパーマンのアンサンブルをデジタル時代を先取りしたアーティストの一人だと積極的に評価し、「細部に集中すると全体を見失い、全体に集中すると細部を見失う」という視覚操作に注目していた。本展覧会でもそのことは存分に語られ、全体と細部の関係が攪乱されていること、そのことに注目が向けられているが(双眼鏡が観客に用意されている作品というのも珍しいことだ!)、その攪乱が、デジタル時代との関係といった脱歴史的なものではなく、やはり彼女が女性であることの、そして女性芸術家であることの自己規定の問題と密接に関係していることが確認できたことは大きな収穫だった。

この細部の繊細な構造の中での繰り返し、あるいは繰り返しのようでいて違うモノの連なり、そして似ているものと同じモノの連なり、そしてその構造をさらに構造化したようなモノの繰り返し、あるいは似たようなモノ、違うモノの連結。眩暈のするような細部と全体の往復を一つ一つ進ませ、飛び出し、分け入りながら、困惑する。そしてこの困惑の総体に圧倒されながら、自己をより正確に規定するために、そして自己をより忠実に語るために十分に必要な展開構造こそが、このアンサンブルであったことを改めて実感する。規範からの逸脱を増殖させながら、あるいは膨大な不在を積み上げながら、自己という存在をその積み上げのなかに構築しているとでもいうべきかもしれない。アンサンブルアートという手法は、女性芸術家としてのオッパーマンの見つけた、芸術への「参入」という詩学なのだと改めて考えさせられた。


Komatsubara Yuris Labo

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